黎明期
組合というものを「複数の者が一緒に事をなす」ための手段と捉えれば、人が地球上に現れたときまで遡ることができるでしょう。しかし、このような生活共同体的な組織ではなく、経済的側面から組合を捉えると、ヨーロッパにおいてはギルドやツンフト、日本においては江戸時代の株仲です。ギルドは、11~12世紀頃、商人ギルドとして発生し遅れて12~13世紀頃、同職仲間のギルドができました。イギリスでは、手工業者仲間のギルドをクラフト・ギルドと呼び、ドイツではツンフトと言われました。ギルド、ツンフトとも排他的な特権団体であり、自分たちの権益を守ることが目的でした。日本における株仲間も商工業者間の同業者組織ですが、それは多分に特権団体としの性格を持つものでした。明治から戦前
薩摩・長州を中心とする官軍が徳川を倒して明治維新を迎えます。その時の日本の課題は一日も早く近代国家を作ることでした。当時、ドイツの「産業経済法」を模して明治33年(1900年)に「産業組合法」制定されましたが、これは日本で初めて「組合」という文字を利用した法律です。この法律は、組合組織を活用し共同事業を行うことで、近代化・合理化を推進することを主眼としたものです。しかし、法律ができてもなかなか組合は生まれません。そこで、組合設立などを支援する機関として明治38年(1905年)、産業組合中央会が設立されました。これが中央会のルーツです。日清・日露の戦争を経て、日本は段々と戦時体制国家となりましたが、組合もそれにつれて統制機関の様相を深めてきました。資材の配給や生産統制が組合を通じて行われるようになり、そして昭和20年8月15日を迎えたのです。戦後から現在
戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は日本の経済民主化に取りかかります。教科書には財閥解体や独占禁止法の制定などが載っていますが、実はもう一つ中央会の解散がありました。 明治38年に創設された中央会は、昭和24年に解散させられました。その後、昭和30年に復活するまで、6年間の空白期間が生じることになります。ただ、皮肉にも、この昭和24年に戦後の民主的組合の基本となる「中小企業等協同組合法」が制定され現在に至ることになります。戦後の組合は、相互扶助に基づき共同事業を推進する経済事業体として出発することになります。コストを下げるための共同購買事業、より大きな仕事を受けるための共同受注など、いわゆる規模の経済を推進する組織として組合が活躍することになるのです。市場が成熟し経済のソフト化がすすむと組合の役割も変化し、共同で規模の経済を追求するだけではなく新分野進出や新製品の開発など、連携の力を組合で実現する事になりました。組合は経済環境の流れに応じて、その使命を変化させながら時代の役目をしっかりと果たしているのです。組合とは何か
組合は、その名のとおり「組み合わせ」です。力や知恵を組み合わせて、一緒に何かの目的を果たそうとするものが組合ですから、目標を達成するために何をどのように組み合わせれば良いか、それを十分に検討しなければなりません。組合の特徴
●相互扶助組合組織は、複数の中小企業者の組み合わせであること。
一人では組み合わせができませんし、組織とは言えません。必ず二人以上の構成員が必要です。組合は4人以上の構成員を設立要件としています。組合組織は一定の目的を持つこと。
組織というのは烏合の衆ではありません。組織は一定の目的を持ったものであり、その目的達成のために、意識的・計画的に行動しなければなりません。組合組織は一定の秩序と体系を有すること。
何の秩序も体系もなければ、組織として運営していくことはできません。 秩序や体系は、具体的には定款、規約・規程、内規などの自治的規範によって表現され、これに基づいて総会、理事・監事などの機関が置かれることになります。組合組織は一定期間継続すること。
組合は共同経済事業体ですから、活動は反復継続して行われなければなりません。もちろん、企業がゴーイングコンサーンであるように永続組織で良いわけですが、期間を定めて活動を行うこともできます。組合組織は自主的組織であること。
他から強制されて組合を作るものではありません。あくまでも主体性を持って、自主的に設立され活動する組織でなければ組合組織とは言えません。